I. はじめに
醤の文献上の初出は中国の『周礼』であるとされ、当時は肉や魚を用いて作られていた。6世紀中頃の『斉民要術』には肉醤や魚醤のほか、大豆と麹を使った作醤法についての記載がみられることから、前漢代には穀醤が作られるようになったことがわかる。
魚醤とは、生の魚介類に塩を加えて腐敗を防ぎ、原料に含まれる自己消化酵素や微生物を利用して発酵・熟成させた保存食品である。発酵によりタンパク質が分解され、強いうま味が生じる。
石毛は、東南アジアと東アジアに共通する食文化として「うま味」を挙げ、両地域は「うま味の文化圏」を形成しているとし、東アジアを「穀醤卓越地帯」、東南アジアを「魚醤卓越地帯」に分類している(石毛・ラドル 1990)。
東アジアにおいて穀醤の普及により魚醤が衰退した理由として、石毛は経済的要因と食味の問題を挙げている。肉や魚より穀物のほうが安価であり、大量の原料を計画的に調達でき、かつ輸送や原料の保存も容易である。こうした経済性が穀醤製造の産業化を促したとする。食味の点では、穀醤は魚醤にない成分を含んでいて美味であること、魚醤特有の強い臭気が人々に抵抗感を抱かせ、料理文化が洗練されるにつれ敬遠されるようになったのではないかとしている(石毛・ラドル 1990)。
確かに、東アジアでは味噌や醤油など穀醤が日常的な調味料として使用されているが、韓国のように、いまなお多種多様な魚介類を使った塩辛や魚醤油が製造され、キムチに欠かせない材料となっている地域もある。一方、日本では奥能登のいしりや秋田のしょっつるのように、魚醤油が伝統的食文化として残っている例は一部地域にとどまる。
稲作保護、仏教、神道の影響で、近代までの長きにわたり肉食が忌避された日本では、魚食文化が発展した。古代日本において、魚醤は穀醤とともに平安貴族のハレの日の宴である大饗に上る重要な食物だった。
しかし、江戸時代中期に醤油の産業化が進み都市を中心に醤油が普及するにつれ、魚醤油は衰退し、やがて、ややもすれば人々に賤視される存在になっていく(農商務省水産局 1935)。
現代になると、1980年代後半から1990年代初めのエスニックブームをきっかけに魚醤油は脚光を浴び、その後、2010年代のエコブームにのり開発の機運が高まった。2011年には第34回コーデックス総会で魚醤油の規格が採択され、貿易品としての規格が整えられた。コーデックス規格では、魚醤は「魚と食塩の混合物から発酵で得られ、塩味と魚の風味を有し、半透明で濁りの無い液体製品」と定義され、魚と塩を混合し、最低6ヶ月発酵させること、また発酵促進のための材料を加えてよいとしている。
2020年代には気候変動、海水温の上昇など海洋環境の変化が世界的に問題となる。水産資源の有効活用という観点から、また加工時に生じる残滓処理費用節減のため、残滓および加工原料に適さない規格外の魚体の活用法として魚醤油開発が加速化した。一部地域ではブランド化が進むなど、魚醤油は新たな展開を迎えている。
魚醤油に関する先行研究としては、魚醤油の速醸(宇田川 2012)、魚臭の低減に関する研究(藤井 1975, 船津 2001, 堂本ほか 2001, 吉川ほか 2006)、減塩魚醤油の開発(古川ほか 2001)、未利用または低利用水産資源および加工品製造時に生じる残滓利用を目的とした研究(三枝 1999, 川崎ほか 2003, 渡辺ほか 2010, 北本 2019, 谷口ほか 2020)など、主に自然科学分野からの研究が行われてきた。
一方、文化人類学的観点からの研究としては、『魚醤とナレズシの研究―モンスーン・アジアの食事文化―』(石毛・ラドル 1990)が挙げられる。魚醤とナレズシを取り上げ、東アジアと東南アジアの食事文化の基層を探り、グローバルな視点から水田稲作地帯の食事文化について検討した、魚醤に関する横断的、実証的研究である。
このほか、魚醤油が伝統的食文化として定着している石川県能登地域における利用状況に関する研究(林 2016a, b)、おなじく奥能登の魚醤油に係わる名称の地域間比較を通して、魚醤油の文化的価値を再考した研究(東四柳 2023)がある。奥能登のほかには、山形県飛島の魚醤油について、それをとりまく人間関係や物質文化および魚醤油の成分分析を行った研究(白石ほか 2004)がある。しかしながら、日本において魚醤油は全国的広がりを持つ日常調味料ではないことから、食文化の観点からの研究は限定的である。
歴史を遡ると、現代の魚醤油開発ブームよりも前、日本が近代国家としての歩みを始めた時代、魚醤油を再評価し、新たな魚醤油開発の機運が高まった。しかしながら、近代における魚醤油の実態、再評価と魚醤油開発をめぐる動きについてはこれまで検討されてこなかった。
II. 研究内容および方法
1.研究目的
本研究の目的は、近代における魚醤油の再評価および開発の歴史とその社会背景について明らかにすることである。それにより、日本において、一部地域を除き魚醤油が廃れた要因の一端を明らかにできると考える。
石毛は、魚醤が塩蔵魚の製造過程で偶然発見された可能性を指摘し、魚醤を「生の魚介類を主な原料として、塩を加えることによって腐敗を防止しながら保存し、主として原料に含まれる酵素の作用によって筋肉の一部が溶けて構成要素のアミノ酸類に分解することを意図して製造した食品」と定義している(石毛・ラドル 1990)。
本稿は石毛の定義に従い、発酵・熟成期間が短く、魚肉の分解が進んでいない状態のものを塩辛、塩辛製造工程で生じる浸出液を塩辛汁、魚体のほとんどが溶解するまで熟成させ、液体化させることを意図して製造したものを魚醤油と定義する。
2.研究方法
本稿の分析対象は、『日本水産製品誌』(農商務省水産局 1935)および北海道帝国大学水産専門部教授大島幸吉による報告「新魚醤について」(大島 1928)である。近代は、前代に衰退した魚醤油を国家および水産業の発展に利用するべく、魚醤油の再評価および新たな魚醤油開発が試みられた時代である。これらの資料には、当時の魚醤油製造の実態、魚醤油の再評価と開発目的、さらには魚醤油の欠点とその克服法が詳述されているため分析対象とした。
『日本水産製品誌』は、農商務省水産課が当時横行していた乱獲酷魚を取り締まるにあたり、各地の旧慣や実情を把握するため現地調査し、その結果をまとめたものである。1886(明19)年頃から編纂を開始し、1895(明28)年に完成をみる。明治20年代に日本に存在した水産製品の製造法等が載録されている。
「新魚醤について」は、大島が大正期から昭和初期の魚醤油の実態をふまえ、大島自身が開発を手がけた「新魚醤油」の製造法についての報告である。大島は、1920(大9)年、北海道帝国大学(北海道大学の前身)附属水産専門部に移籍後、魚醤油開発に取り組んだ。伝統的な魚醤油の欠点を克服するため、新たに開発した製造法について紹介している。
3.近代における水産業
資料を分析するにあたり、近代における水産業について概観しておく。
1) 水産行政
明治時代に入り、政府は富国強兵、殖産興業を目標に掲げ、近代化政策を推し進めた。鉄道や海運、通信等を整備し、鉱山経営、製糸業等に乗り出し、茶や生糸などの輸出で獲得した外貨は富国強兵政策に投入された。
一方で、政府の水産業に対する関心は低く、水産行政の整備は遅れた。こうした中、国外の万国博覧会で先進国の水産業の実情に触れたことをきっかけに、日本の水産行政は進展し始める(Table 1)(Table 2)。
1881(明14)年、内務省勧農局水産課が農商務省に移管されると、以降、水産業の保護、育成が本格化した。水産課では、魚介の養殖=孵化放流事業および加工品の試製、油漬イワシ缶詰、くん製品、乾製品、魚油などの試作が行われた(山口 1965)。
1885(明18)年、水産局に格上げされると、漁務課、製造課、試験課、庶務課がおかれ、水産業振興に関する各種調査試験や編纂物の刊行が進んだ。
幕藩体制下では、海洋への公的規制が敷かれていたため乱獲が抑制されていたが、幕府が倒れると規制はなくなり、乱獲酷漁の状況がつづいた。これを取り締まる政策の立案に先立ち、現状を把握するための調査が行われ、その結果はのちに『日本有用水産誌』『日本水産製品誌』『日本水産捕採誌』にまとめられた。
政府は水産行政の整備を進める一方、1883(明16)年に第1回水産博覧会、1897(明30)年に第2回水産博覧会を開催し、新しい水産知識や技術の普及に努め、技術改良を促した。
民間においても水産振興の動きが活発化する。1882(明15)年、ドイツ水産会にならって創立された大日本水産会は、当時、課題であった清国への輸出品の信頼と市場回復のため、共進会や品評会を通じて水産製品の改良を促した。
1887(明20)年に開催された第1回水産品評会では、清国との貿易品5品(鯣、煎海鼠、干鮑、鱶鰭、干海老)などが出品された。当時の水産品はおよそ前代の域を出なかったため、将来的な輸出を見据え、出品物の品評には横浜在留の清国商人が招かれた(現代日本産業発達史研究会 1965)。
以上みてきたように、水産行政が整備され、官民挙げての各種博覧会、共進会、品評会の開催を通じて、次第に水産業は産業のひとつとして認知されるようになっていった。
2) 漁業の発展と水産加工品
山口 (1957)は、現代日本における水産業の発達段階を①1867年(明元)年から1897(明30)年ごろ、②1897(明30)年ごろから1921(大10)年ごろ、③1921(大10)年ごろから第二次世界大戦までの3期に区分し、それぞれ沿海漁業爛熟期、沖合漁業発展期、遠洋漁業発展期としている。各段階における水産加工品の状況について、『現代日本産業発達史ⅪⅩ』(現代日本産業発達史研究会 1965)に拠って整理するとつぎのようになる。
第一期は江戸時代から続いていた沿岸漁業が最隆盛期を迎えた。1891(明24)年の水産事項特別調査によると、沿岸から3里以内の沿岸漁業の漁獲高は全漁獲高の約7割を占めていた。
第一期の主な水産加工品は、魚肥と食用品である。江戸中期以降、木綿や米、藍等の栽培に用いられるようになった魚肥は、依然として重要な水産加工品であり、全体の約37%を占めていた。
食用品の内訳は、鯣、かつお節、煎海鼠、干鮑、鱶鰭などの干製品、燻製品、塩辛類、食油、海藻類であった。鯣は、江戸時代より中国に輸出されていたが、明治に入り乾燥機器が発明・改良されると生産量が増加した。1882(明15)年の水産物輸出高は清国が98%を占め、輸出先は圧倒的に清国が多かった(Figure 1)。
第二期は沿岸漁業に代わり、沖合漁業が発達し始める。殖産興業政策の成果である軽・重工業の発展が、漁業の近代化を一層後押しした。具体的には、漁網の改良と漁船の動力化である。紡績業の発展により綿糸の大量生産が可能となり、日露戦争後の重工業の発展により編網機が開発され、安価で大量生産可能な綿糸漁網が普及した。また、1906(明39)年、静岡県でカツオ漁船に導入されたことを契機に全国各地で漁船の動力化が進んだ。これにより漁場は沖合へと広がり、漁獲対象も変化していった。
さらに、日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)の結果、台湾、樺太を植民地とし、関東州が租借地となったことで外地漁業が発達した。第2期の終盤、1897(明30)年、遠洋漁業奨励法が公布されると、政府の奨励策に後押しされ遠洋漁業が徐々に発展しはじめる。
第二期における水産加工品の特徴は、魚肥が減少し、代わりに食料品の比重が増大したことである。1921年(大10)年の水産製造物生産金額の構成比は、食料品が83.1%であったのに対し、肥料は15.4%であった。第一期に比べ、魚肥の比率が下がった背景には、輸入大豆粕や鉱物肥料の増加、食料水産加工品および鮮魚に対する需要増があったとされる。
食料品のなかでは、かまぼこやちくわなど練り製品の増加が顕著であった。練り製品の生産量が明示されるようになった1922(大11)年当時、食料水産加工品雑類のうち、練り製品は45.1%を占めていた。背景には、底引き網漁業やトロール漁業の発達、製氷・冷蔵技術の発達との関連が指摘されている。
また、この時期、缶詰工業が急速に発展した。日清・日露戦争を通じて缶詰需要は増し、製造業者も増加した。また、1907(明40)年に日露漁業条約が締結されたことによりロシア領での漁業が可能になると、北海道で始まったカニ缶詰製造業は、明治末期から大正期にかけて発展を遂げた。
第三期は漁業における産業革命の時代にあたる。遠洋漁業が本格化し、漁業はさらなる発展を遂げる。蒸気機関、ディーゼル機関、鋼鉄船、無線電信装備、冷蔵設備、工船等の発達が水産業の発展を後押しした。
この時期の水産加工品としては、缶詰、冷凍品のほか、かつお節、鯣、煮干しイワシ、海苔、練り製品がある。缶詰の中でもとくにタラバガニ缶詰の生産高は、大正後期に母船式カニ漁業が発達したことで急増した。主な輸出先は欧米で、なかでもアメリカ合衆国向けは全体の5割に上った。
鯣は北海道南部・岩手・青森などが主産地で、1923(大12)年の産額は、全水産食品の12%に及んでいた。また、練り製品の産額は、1925(大14)年に全水産食品の14%を占めるほど増加した。背景には、底曳漁業・トロール漁業の発達により原料の大量供給が可能になったこと、冷蔵・冷凍技術の発達により長期保存が可能になったことがある。
III.結果および考察
1. 『日本水産製品誌』に載録された魚醤油
載録されている魚醤油は、玉筋魚醤油、鰛醤油、鯷醤油、鯖膓醤油、烏賊膓醤油、雲丹醤油、蠣醤油、鮩醤油、貝肉醤油、蟹醤油の合計10種類である(Table 3)。
このうち、蠣醤油と貝肉醤油は、カキおよび各種貝のゆで汁に塩を加えて煮詰めた、いわば濃縮エキスである。酵素による自己消化を伴わないため、魚醤油の定義からははずれる。したがって本稿の分析対象から外す。
日本三大魚醤油のひとつである秋田県のしょっつるが載録されていないが、理由は不明である。一方、乾製品の項目に乾鰰卵(ブリコ)が、淹蔵品の項目に塩鰰と鰰鮓の記載がみられる。塩鰰はハタハタを塩漬けしたもの、鰰鮓は、新鮮なハタハタの内臓を除去したのち、飯と塩で漬け込んだ生なれである。除去した内臓は塩を加えて醤にすると書かれていることから、これがしょっつるを指していると考えられる。
産地が明記されているのは、玉筋魚醤油、鰛醤油、鯖膓醤油、烏賊膓醤油の4種類である。玉筋魚醤油は讃岐、下総、その他の地域において、鰛醤油は石川県能登地方、島根県石見地方等において、鯖膓醤油は山陰、北陸の漁村で作られていると書かれている。烏賊膓醤油は古来能登で作られてきたが、佐渡、渡島等にも伝わり、近年、各地で試作されるようになったとある。
これら4種類の醤油のうち、玉筋魚醤油のみ瀬戸内海沿岸、太平洋側の地域で産し、ほか3種類はすべて日本海側で作られている。
載録されている魚醤油のうち、国内で製造されていないことが明記されているのは鮩醤油のみである。鯷醤油の製造法は「鰮醤油に準じる」とあり、各地で製造法を研究すべきとあることから、当時、国内では製造されていなかったとみてよい。
原材料の魚介類は、イカナゴ、イワシ、ヒシコイワシ、サバの内臓、イカの肝臓、ウニ、アミ、カニである。副材料としては、塩のほか麹(玉筋魚醤油)、サバやシイラの漬け汁、よく煮熟したダイズおよびオオムギ(能登の鰮醤油)、麦麹(石見の鰮醤油)、豆麹・醤油糟(その他の地域の鰮醤油)、飴・煎りぬか(鯖膓醤油)が見られる。
仕込み時期については、能登およびその他の鰮醤油が4、5月頃に仕込むとの記述が見られるが、これ以外には仕込み時期に関しての記載はない。
熟成期間については、玉筋魚醤油が①約100日②約150日③200日、鰛醤油が、能登地方2ヶ月、石見地方6ヶ月、その他の作り方で6、7ヶ月、鯷醤油の場合は6、7ヶ月以上熟成させる。鯖膓醤油は60日、烏賊膓醤油は約100日、蟹醤油と鮩醤油はいずれも数ヶ月熟成させる。雲丹醤油については明記されていない。これら魚醤油の発酵・熟成期間は約3ヶ月から最長でも7ヶ月で、比較的短期間である。現代の速醸法は、魚臭を抑えるため発酵を促す麹を添加し、加温することで発酵・熟成期間を短縮している。明治時代の魚醤油が短期熟成であったのは、魚臭の低減が目的であった可能性がある。
つぎに製造法についてである。玉筋魚醤油、鯖膓醤油、烏賊膓醤油は、原材料である魚介類をまるごと、鰛醤油、鯷醤油は魚を切るか押しつぶして仕込む。
発酵・熟成後に火入れ工程があるのは、玉筋魚醤油、鯖膓醤油、烏賊膓醤油、雲丹醤油、蟹醤油で、火入れ工程のないのは鰛醤油と鯷醤油である。火入れ工程のある魚醤油の製造法は、①滴下→濾過→火入れ(蟹醤油)、②滴下→濾過→火入れ→濾過(玉筋魚醤油)、③圧搾→火入れ(玉筋魚醤油、雲丹醤油)、④滴下→火入れ→上澄みをとる(鯖膓醤油、烏賊膓醤油)、⑤火入れ→圧搾→火入れ→副材料添加→圧搾→火入れ(鯖膓醤油)の5つに分けられる。
火入れ工程のないものは、①濾過、滴下、圧搾のいずれか1工程、②滴下→濾過、③上澄みをとる、の三通りある。濾過には、紙、竹籠、ざる、布または布袋、木綿袋が用いられる。
等級に関する言及もみられる。玉筋魚醤油の場合、滴下させて紙で濾過し、火入れの後、さらに紙で丁寧に漉す。火入れと濾過を3∼4回くり返すことで色は透明になり、味も香りもよくなるという。こうしてとったものは、「一番取と称し上製」であるとしている。「一番取」をとったあと、塩を加えて再仕込みしたものが「二番取」になる。こうした等級づけは醤油にもみられる。等級が上の魚醤油は下位の魚醤油とは異なる用途があったと考えられる。
鯷醤油の場合、清澄な醤油を得るには、仕込んで2ヶ月後に塩と水を加えて攪拌して放置し、4、5ヶ月後に液体が澄んできたら滴下する。鯖膓醤油の製法には、濁汁と清汁の2種類があり、清汁すなわち清澄な魚醤油の場合、滴下後、火入れをし、冷却の後、泡が落ちついたら上澄み液を取る方法がとられる。烏賊膓醤油の場合も同様である。いずれの方法もおりを落ち着かせることで、清澄な液体を得ている。
鰛醤油の場合は、熟成後、上澄み液に、煎り焦がして黒く色づいた醤油粕を加えると色が濃厚になり、通常の大豆を使用した醤油のようになると記載されている。着色することで見た目を醤油に近づけようとしていることから、鰛醤油は醤油の代用品としての位置づけであった可能性がある。
同書の編纂目的のひとつとして、水産業の振興に資する輸出品たりうる製品の発掘がある。そのため、輸出に関する記述が随所に見られる。
鯖膓醤油、烏賊膓醤油、鮩醤油、蟹醤油に関しては、中国への輸出が有望であると記されている。烏賊膓醤油は、1887(明治20)年、農商務技手が水産巡回教師として能登に出張した際、持ち帰り、清国人に見せたところ、大いに見込みがあると言われたという。農商務技手は全国巡回の傍ら、輸出の可能性がありそうな水産製品を探していたとみえる。
鮩醤油、蟹醤油については、国内で製造されていないものの、ともに中国では利用され、珍重されていることから、今後国内製造に着手し、輸出を計るべきであるとしている。
鯷醤油については、ヨーロッパ諸国で作られるアンチョビーソースを念頭に、各地で製造法を研究し、品質のよい魚醤油を作り、輸出を計るべきだとしている。
全国各地の現地調査で得られた知見から、貝肉醤油のように水産局製造課で新たな魚醤油の試作がなされたケースもあった。
2. 「新魚醤油について」に載録された魚醤油
大正時代から、この報告が出された1928(昭3)年ごろまでに行われた魚醤油開発として、3件報告されている。第1に、小野辰次郎(水産講習所)考案のイワシ魚醤油である。その製法は、イワシを塩漬けし、長期間自然分解させるというものであった。小野の技術と星製薬株式会社(1911年設立)の援助で長山長太郎が富山県氷見市で水産醤油工場を設立し、販売したが振るわず、結局失敗に終わった。
小野は、水産物を原料とする調味料の研究に従事し、魚醤油を用いたウスターソースやケチャップ、アンチョビーソースなど西洋由来のソースを開発した(日本醸造協会 1926)。背景には、明治期の近代化政策の一環として西洋料理が受容され、日本の食文化と融合して生まれた洋食が明治末期から大正時代に一般化し、ソースの需要が高まりつつあったことがある。
第2に、福島県の遠藤俊一郎が考案し、ヤマト醤油会社から発売された「女王醤油」という魚醤油である。その製法は、魚粕に豆粕や米糠を混淆して麹を作り、魚醬油を製造するというもので、多くの発明特許権を得て、若干量製造販売していたという。
第3に、神奈川県の水産試験場が行った蒲鉾製造の廃棄物を使用した魚醤油開発である。その製造法は、塩酸分解し、ソーダで中和しさらに麹少々を加えるというものである。この開発にも長山長太郎が係わっていた。長山は、1924(大13)年から1926(大15)年にかけて、神奈川県立水産試験場で蒲鉾製造の廃棄物から魚醤油を精製する技術を確立した(神奈川県立生命の星・地球博物館 2016)。
このほか、東京水産講習所教授の山本祥吉が、鰹節製造時に生じる煮汁を酸およびアルカリで処理して、醤油に似た調味料「鰹の素」を考案し、1919(大8)年、静岡県焼津町の村松善八商店が製造販売した。
大島は、日本在来の魚醤油は「味において捨てがたい長所を有するが、『強い悪臭』があるがゆえに、その匂いになれていない人には適さず、需要は一地域に限られ、しかも製造は小規模で自家用にのみ作っているものが多い」と述べている。
従来の魚醤油のもつ欠点は改良されてきたとはいえ、未だ不十分であること、また、魚類に含まれるタンパク質は人間にとって重要な栄養素であるが、この利用も十分とはいえないことを指摘している。当時、漁獲された水産物は、多くが魚粕に加工され魚肥として用いられたが、加工の過程で生じる大量の内臓や煮汁は処理が難しく、多くは廃棄されていた。
大島は①悪臭の克服、②魚類に含まれる人体に有用な栄養素の利用、③廃棄物の有効活用を目的に「新魚醤油」の開発に取り組んだ。
その一つが、烏賊内臓魚醤油である。1926(昭元)年、大島は、函館の鯣製造改良組合から製造時に廃棄される内臓の利用について相談を受けたことから、開発に取り組んだ。
大島考案の烏賊内臓魚醤油の製造法は以下の2点において画期的だった。①内臓に含まれる酵素で自己分解させた後、液体を遠心分離機にかけて油とタンパク質溶液を分離する、②分離した溶液に食塩とでんぷん質および醤油の香りと色を形成する基礎物質を添加し、加温装置を用いて発酵させる。麹は用いず、1ヶ月内外で熟成するという。
魚醤油の悪臭は、魚油がもつ不飽和脂肪酸の酸化により生じる。大島の方法は、油を完全に分離するため悪臭が抑制される。ただし、色味については未だ不十分であり、改良中であるとしている。
大島は、烏賊内臓魚醤油の収益性について言及している。この製造法では、1石のイカ内臓から2石の魚醤油と2斗の油が得られる。北海道における鯣製造時に生ずる廃棄内臓の年平均産額から計算し、この魚醤油を約25万石、魚油を2万5千石作ることができるとする。原料の内臓は「ただ同然」であるため利益率は高く、魚醤油1升を40銭とすれば、その売上は1千万円に上るという。また、内臓は2∼3割の塩を加えて貯蔵しておけば一年中魚醤油の製造が可能になり、良質の魚醤油であれば販路に困ることはないと述べている。
1927(昭2)年、函館水産化学工業研究所で約30石のイカの内臓から製造した醤油を原料として「ソース」を製造し、配布および試買した結果が良好であったことから、今後、事業として展開する可能性についても言及している。
大島が考案したもう一つの新魚醤油は、蟹肝臓利用醤油である。蟹(主としてタラバガニ)の肝臓(ミソ)に強力なタンパク質分解酵素および澱粉分解酵素が含まれることから麹の代用とし、それによって魚類の白子や脱脂乳豆粕、澱粉質を分解させ、溶液を濾過脱脂後、発酵・加工して醤油類似品を製造する。
魚肥にするには乾燥が難しいニシンやタラの白子、酢だこ製造時の廃棄内臓、函館地方で冬季に漁獲されるイワシを主材料とし、タラバガニの肝臓を加えて試作したところ、よい結果が得られたという。
その収益性について、大島は次のように述べている。北海道釧路地方では、夏季に漁獲されるイワシや小型のニシンはほとんどすべて搾り粕にするが、近年は魚粕の相場が低い。また、この地方は海霧により乾燥不良で腐敗することも多い。これらの魚2斗(原価約70銭)を原料にすると魚醬油が4斗できる。1升40銭としても16円となり、20倍の価格となる。原料となる魚は塩蔵しておくだけでよいため、手間もかからない。
これら2つの新魚醤油の長所として、大島は、①悪臭が少ないこと、②うま味が強く、だしが不要であることの2点を挙げている。先述したように、大島の製法では魚油を完全に分離するため、魚臭が抑制される。うま味については、魚醤油自体に強いうま味があることから、料理にだしを用いる必要がないとする。湯豆腐やちり料理を作る際、醤油と魚醤油を使い比べると、そのことがよく分かるという。うま味を活かした利用例として、北海道岩内地域で大島考案の魚醤油を桜干し(味醂干し)の製造に用い、良好な結果が得られたことを紹介している。
『日本水産製品誌』と同様に、大島は魚醤油の輸出についても言及している。中国では日本の醤油が愛用されているが、高価なため十分な販路が開けていない、これに対し安価な魚醤油は輸出品として有望である。また、麹を使わないことからかび臭さがなく、ヨーロッパへの輸出に適するとする。アンチョビーソースを引き合いに、ソースの原料としての魚醤油の可能性を見いだしている。
IV.結論
1) 魚醬油の再評価と開発の背景
明治政府は、欧米を範として近代国家を目指し、殖産興業政策および富国強兵政策を推し進め、諸産業を興して近代化を図った。
一方で、水産業は等閑視され、漁業の近代化は他の産業に後れを取った。水産物の主な輸出品は、江戸時代以来の俵物にとどまり、茶や生糸の輸出額に遠く及ばなかった。農商務省に水産課が移管された1881(明14)年当時、水産物の産額はコメの1割強に過ぎず、その輸出先は9割強を清国が占めるなど市場は限られていた。
こうした状況下で、水産課は将来有望な輸出品として魚醤油に目をつける。『日本水産製品誌』の編纂目的は、水産加工品の改良をはかるとともに輸出を促進することであり、水産業の振興により国家財政に資することにあった。魚醤油については、輸出先として中国とヨーロッパを念頭においた記述が随所に見られた。日本においては、魚醤油は一部地域を除いて衰退したが、これを嗜好する中国およびヨーロッパへの輸出に活路を見いだし、有望な輸出品として再評価するとともに新たな魚醤油開発も試みられた。
『日本水産製品誌』(農商務省水産局 1935)は、「従来廃物に帰していた魚膓類」で魚醤油を製造し中国に輸出すれば、中国の人々にとっては嗜好に合う製品を安価に得られ、日本にとっては廃物利用となり、双方にとって利益になると述べる。魚醤油は、必ず日本の一大水産物となり、その利益の大きさは計り知れないため、将来に大いに期待を寄せるべきであるとしている。
1897(明30)年頃から大正時代を通じ、沖合漁業および遠洋漁業が進展すると、水産業はさらなる発展を遂げる。水産加工品の開発が加速化し生産が増えるにつれ、加工時に生じる残滓いわゆる廃棄物の処理が問題となる。
こうしたなか、大島は、「従来無価値あるいは非常に安価な魚類およびその廃物」を用いることで水産物の付加価値を高め、「水産業の発展と人類の福利」に貢献すべく、新魚醤油の開発に取り組んだ。大島もまた、中国およびヨーロッパを魚醤油の輸出先として想定していた。
以上のように、近代日本における魚醤油の再評価と開発の背景には、水産業の振興による国家財政への寄与という目的があった。明治期は富国の基礎を固めるため、大正期は近代国家としての成熟期を迎え、水産業のさらなる発展と人類への貢献という目的のもと魚醬油の再評価と開発が進められた。
ただし、水産業の発展、富国に資する水産加工品として白羽の矢が立った魚醤油は、近代日本において一部地域を除き、食文化としてはすでに廃れていた。あくまで魚醤油は、無価値もしくは安価な魚類、その廃物で製造できる経済合理的な商品として評価されたのであり、日本の食文化として積極的評価がなされたわけではなかった。
廃物利用という点は、現代における魚醤油開発の背景と相通ずる。2000年代、日本では全国各地で魚醤油開発の機運が高まったが、背景のひとつに、水産加工品製造時の副産物である残滓=廃棄物処理の問題があった。2000年に循環型社会形成推進基本法が公布されて環境への意識が高まると、2001年には食品リサイクル法が施行され、水産加工時に生じる残渣や食品廃棄物の不法投棄が厳罰化された。残滓として処理すると高額な費用がかかるため、水産加工業者はこれを利用して魚醤油を製造し、付加価値をつけて販売しようと開発を試みたのである。
つまり、近・現代を通じ、魚醤油は無価値もしくは価値の低い魚類およびその廃物を利用して作る、経済合理的な水産加工品の域を出ることはなかったのである。
2) 魚醤油衰退の要因
魚醤油が衰退した要因としては、特有の魚臭が挙げられる。『日本水産製品誌』に載録された魚醤油の中には、原料である魚介類と塩に加えて、麦麹や豆麹を使用する例があるが(玉筋魚醤油、鰮醤油)、その目的は発酵を促進して熟成期間を短縮し、魚臭を低減することにあったとみられる。麹添加による速醸法は現在も見られるが、明治初期にはすでに行われていたのである。
大正時代になっても、魚醤油普及のネックになったのは魚臭であった。大島は、魚醤油は味はよいものの、「強い悪臭」がその普及を妨げているとし、魚臭の低減を試みた。悪臭のもととなる魚油を完全分離し、発酵を促進する澱粉質や水産物加工時に生じる残滓を添加、加温により速醸し、さらに醤油糟や小麦ふすまを使って丁寧に脱臭した。こうして開発された魚醤油は昭和時代、戦時中の食糧難に醤油の代用品として脚光を浴びたものの、醤油が入手可能になると廃れ、全国的な広がりをもつ食文化として定着することはなかった。
V.今後の課題
近代を通じ、日本において一部地域を除いて魚醤油が日常的調味料になり得なかった理由のひとつは、魚醤油特有の魚臭にあった。現在、全国各地で地域特有の水資源を活用した魚醤油や未利用魚・未利用部位を原料とする魚醤油の開発がめざましいが、克服すべき課題は依然として魚臭である(吉川 2013)。そして、魚臭を低減してもなお、魚醤油は全国的広がりを持つ日常の調味料にはなり得ていない。今日では、魚臭を抑えるのではなく、むしろ原料である魚介類特有の臭いを活かす方向での魚醤油開発も一部では見られる。
肉食禁忌の一方で、魚食文化が発達したとされる日本において、なぜ魚醤油の臭いは敬遠されるのか。「生臭い」という感覚はいつから見られるようになるのか。ここでは、問題の本質が古代にまでさかのぼる可能性を指摘するにとどめる。
大正時代、長山長太郎が、富山県氷見市でイワシ魚醤油の開発を試みたものの、仏教や精進料理の影響で販売が振るわなかったというエピソードは、魚醤油衰退の背景に仏教の影響があったことを示唆している。日本では中世以降、仏教が社会的に浸透するにつれ、狩猟、漁撈が蔑視されるようになるが、そのことと魚醤油衰退との関係についての検討は今後の課題としたい。




